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岡本太郎氏に学ぼう(2)〈出来難き事を好んで之を勤るの心〉

200723

宇佐美 保

 《岡本太郎氏に学ぼう(1》に続き、岡本太郎氏の著作を続けます。

 

 そうは言っても、人はいつでも迷うものだ。あれか、これか……。こうやったら、駄目になっちゃうんじゃないか。

 俗に人生の十字路というが、それは正確ではない。人間は本当は、いつでも二つの道の分岐点に立たされているのだ。この道をとるべきか、あの方か。どちらかを選ばなければならない。迷う。

一方はいわばすでに馴れた、見通しのついた道だ。安全だ。一方は何か危険を感じる。もしその方に行けば、自分はいったいどうなってしまうか。不安なのだ。しかし惹かれる。本当はそちらの方が情熱を覚える本当の道なのだが、迷う。まことに悲劇の岐路。

・・・・・・

 しかし、よく考えてみてほしい。あれかこれかという場合に、なぜ迷うのか。こうやったら食えないかもしれない、もう一方の道は誰でもが選ぶ、ちゃんと食えることが保証された安全な道だ。それなら迷うことはないはずだ。もし食うことだけを考えるなら。

 そうじゃないから迷うんだ。危険だ、という道は必ず、自分の行きたい道なのだ。

ほんとはそっちに進みたいんだ。

 だから、そっちに進むべきだ。ぼくはいつでも、あれかこれかという場合、これは自分にとってマイナスだな、危険だなと思う方を選ぶことにしている。誰だって人間は弱いし、自分が大事だから、逃げたがる。頭で考えて、いい方を選ぼうなんて思ってたら、何とかかんとか理屈をつけて安全な方に行ってしまうものなのだ。

 かまわないから、こっちに行ったら駄目だ、と思う方に賭ける。

 瀬戸内晴美はぼくに最初に会った頃、それを聞いてショックを受け、以来それを実行してきたと言っている。彼女はちゃんと食えてるし、それ以上、堂々とやってるけれど、覚悟はそこにあるんだ。ほんとうに生きるっていうのは、そういうことだ。

 

 

 瀬戸内晴美氏(現在は瀬戸内寂聴尼)は、ご自身の力でちゃんと食べているのでしょうが、この“あれかこれかという場合、これは自分にとってマイナスだな、危険だなと思う方を選ぶことにしている”を日頃なんとか頑張って心掛けて居ます不肖な私は、多くの方々の“お陰さま”に助けられて食べております。

そして、又、思います。

何故誇りある日本国民は、
危険だ、という道は必ず、自分の行きたい道なのだ。

ほんとはそっちに進みたいんだ”という「平和憲法の道」を捨てて、
誰でもが選ぶ、ちゃんと食えることが保証された安全な道”である軍備の道を選択しようとしているのでしょうか?!

私には不思議ではなりません。

いつの日か機会があったらこの点を瀬戸内氏に聞いてみたいと存じております。

 

 そして、又不思議な事が発生しました。

国会開会での安倍首相の施政方針演説(1月26日)“出来難き事を好んで之を勤るの心”発言です。

安倍内閣メールマガジン(第15 2007/02/01に次のように書かれています。

 

・・・

 演説は、限られた時間の中で、政府の方針や政策を正確に、簡潔にまとめなければなりません。刻一刻と変わる経済社会情勢の中で、何に重点を置き、どのような表現とすべきか、何度も推敲を繰り返して書き上げました

 

 「出来難(いできがた)き事を好んで之を勤(つとむ)るの心」

 

 演説の結びに引用した福沢諭吉の言葉です。

 

 福沢諭吉は、「自分は、士族の子として、士族一般に昔から伝わってきた教育を受け、気風を身に備えた。難しいことにこそ好んで取り組んでいく、

それが士(さむらい)の気風である。西洋の学術を勉強したのは、それが困難な分野だったからであり、もっと困難な分野に出会っていたら、それに挑戦したかもしれない。」と述べています。

 

 明治維新という困難な事業に立ち向かい、近代日本をつくりあげた精神に「美しい国創り」を目指す私の今の心境を重ね合わせました。

・・・

次の50年、100年の時代の荒波に耐えうる新たな国家像を描かなければなりません。それは、私たち一人ひとりが、日々の生活に対し、誇り、生きがい、明日への希望を感じられるような社会でなければなりません。私はこうしたメッセージを今回の施政方針演説に盛り込んだつもりです。

 

 

 この“出来難き事を好んで之を勤るの心”発言に対して、2007年01月30日掲載のgendai.netには、次のような記述があります。

 

安倍首相が国会の演説で引用した福沢諭吉の言葉。「出来難き事を好んで之を勤むるの心」を紹介して、改憲をはじめとする困難な課題に取り組む――とアピールしたが、そもそもこの解釈は間違いだった。福沢がこの言葉で伝えようとしたのは、ひるまずに取り組むことではなく、むしろ「反省すること」だった。薄っぺらの新書で目にした言葉をしたり顔で引っ張り出して悦に入るとは、なんたる浅知恵。

 

 そして、これに関する裏付けを、「ハラダの一言居士発報」を訪ねますと、日本ペンクラブ会員だった故中村光夫が、この件に関して述べられたことや、福沢諭吉の「学問のすすめ」にも出て来るこの「出来難き事」という言葉が、

“夏の夜に自分の身に酒を潅ぎて蚊に喰われ親に近づく蚊を防ぐより、
その酒の代をもって紙帳を買うこそ智者ならずや。”

などの事例と共に、“「出来難き事」は勧めるべきことではない”、という意味で使われている等と教えて頂く事が出来ます。

 

 しかし、安倍氏が“何度も推敲を繰り返して書き上げました”という施政方針演説の中に使われたこの言葉に対する福沢諭吉の真意は兎も角、「50年、100年の時代の荒波に耐えうる新たな国家像」を描くよりも、世界に荒波が起きない平和な世界造りと云うより困難な事業に率先して取り組むべきと存じます。

 

 では又続けさせて頂きます。

 

いずれなんていうヤツに限って、現在の自分に責任をもっていないからだ。生きるというのは、瞬間瞬間に情熱をほとばしらせて、現在に充実することだ。

 過去にこだわったり、未来でごまかすなんて根性では、現在を本当に生きることはできない。

 ところが、とかく「いずれそうします」とか「昔はこうだった」と人は言う。そして現在の生き方をごまかしている。だから、ぼくはそういう言葉を聞くたびに、怒鳴りつけてやりたくなる。

いずれなんていうヤツに、ほんとうの将来はありっこないし、懐古趣味も無責任だ。

 つまり、現在の自分に責任をとらないから懐古的になっているわけだ。

 しかし、人間がいちばん辛い思いをしているのは、現在″なんだ。やらなければならない、ベストをつくさなければならないのは、現在のこの瞬間にある。それを逃れるためにいずれ″とか懐古趣味″になるんだ。

 懐古趣味というのは現実逃避だ。だから、過去だってそのときは辛くって逃避したんだろうけど、現在が終わって過去になってしまうと安心だから、懐しくなるんだ。

 

 この岡本太郎氏のお言葉を胸に、いずれなどと言わずに、私の次なる『コロンブスの電磁気学』(拙文《『コロンブスの電磁気学』の概略》をご参照下さい)を研究執筆完成させたいと存じております。

 更に続けさせて頂きます。

 

今は野放図でメチャクチャな人間というものは少ない。たいてい自分のことはよくわかっているのだ。それだけに悩む。

「どうしてこうなんだろう」とか「これでは駄目だということはよくわかっているんだけれど、どうしたらいいか、その方法がわからない。行動に移れない」などと考えこんで、結局、自己嫌悪におちいってしまったりする。

 そういう人の特徴は、みんな自分だけは特別だと思っていることなんだ。「自分は」だらしがない、「自分は」神経質だ、とか。そう思いたいかもしれないが、それは違う。ウヌボレだといってもいい。そんな人間は、がっかりするくらい、この世の中にいっぱいいる。むしろ、ほとんどがそんな人間だと思った方がいいかもしれない。

 ぼくは逆の発想をしてみることをすすめる。自分はだめな人間なんだとか、こうやったらきっとだめになるだろう、それならそのマイナスの方に賭けてみるんだ。

つまり、自分でだめだろうと思うことをやってみること。

 それは、もちろん危険だ。失敗に賭けるんだ。でも、だめだと思うことをやった方が、情熱がわいてくる。

 みんなどうしても、安全な道の方を採りたがるものだけれど、それがだめなんだ。

人間、自分を大切にして、安全を望むんだったら、何も出来なくなってしまう。計算づくでない人生を体験することだ。誰もが計算づくで、自分の人生を生きている。

たとえば美術家でいえば、美術家というのは、人に好かれる絵を描かなければならない。時代に合わした絵で認められないと、食ってはいけない。生活が出来ない。

 だけど、ぼくはまったく逆のことをやって生きてきた。ほんとうに自分を貫くために、人に好かれない絵を描き、発言し続けてきた。一度でいいから思い切って、ぼくと同じにだめになる方、マイナスの方の道を選ぼう、と決意してみるといい。

 そうすれば、必ず自分自身がワァーッともり上がってくるにちがいない。それが生きるパッションなんだ。いまは、ほとんどの人がパッションを忘れてしまっているようだ

 

 私事で申し訳ありませんが、世紀の大テノールであられたマリオ・デル・モナコ先生が私に歌を教えてくださった理由は、私の声が云々、歌が云々の問題ではありませんでした。

只単に“宇佐美の心の中にはとてつもなく大きながパッションある”でした。

(この件は《マリオ・デル・モナコ先生と私》をご参照頂けましたら幸いです。)

 

 岡本太郎氏の記述に戻ります。

 

・・・ところが自尊心だとかプライドだといいながら、まるで反対のことを考えている人間が多い。

 他人に対して自分がどうであるか、つまり、他人は自分のことをどう見ているかなんてことを気にしていたら、絶対的な自分というものはなくなってしまう。プライドがあれば、他人の前で自分をよく見せようという必要はないのに、他人の前に出ると、自分をよく見せようと思ってしまうのは、その人間にコンプレックスがあるからだ。

 たとえば、自分はなんてバカな奴だといいながら、そのくせ内心では、こっそり、いや、そんなこともないかもしれない、なかなかどうしてなんて思っているものだ。

そういう複雑に絡みあったものがコンプレックスだ。

・・・・・・

 大切なのは、他に対してプライドをもつことでなく、自分自身に対してプライドをもつことなんだ

 他に対して、プライドを見せるということは、他人に基準を置いて自分を考えていることだ。そんなものは本物のプライドじゃない。たとえ、他人にバカにされようが、けなされようが、笑われようが、自分がほんとうに生きている手ごたえをもつことが、プライドなんだ

 相対的なプライドではなくて、絶対感をもつこと、それが、ほんとうのプライドだ。このことを貫けなかったら、人間として純粋に生きてはいけない。

 だから、自分は未熟だといって悩んだり、非力をおそれて引っ込んでしまうなんて、よくない。

・・・・・・

 

 如何でしょうか?

藤原氏のように“日本は欧米に比べて優れている”などの類の相対的プライド(それも自分本人でない過去の方々の業績!)を誇示しようとのケツの穴の小さい発言はせず、太郎氏は、“自分がほんとうに生きている手ごたえをもつことが、プライドなんだ”、更に、“大切なのは、他に対してプライドをもつことでなく、自分自身に対してプライドをもつことなんだ”との見解です。

スケールが違いはしませんか?

そして、藤原氏の見解は“虎の威を借りる猫”的見解です。

恥ずかしい限りです。

「国際人」を盛んに吹聴しつつ、このような態度である藤原氏は、氏の専門である数学の分野で国際的な活躍をされたのでしょうか?

 

 日本国の品格のみに拘泥されている国際人(?)の藤原氏とは異なり、岡本太郎氏は世界に目を向けて次のように記述されております。

 

 たとえ、自分がうまくいって幸福だと思っていても、世の中にはひどい苦労をしている人がいっぱいいる。この地球上には辛いことばかりじやないか。難民問題にしてもそうだし、飢えや、差別や、また自分がこれこそ正しいと思うことを認められない苦しみ、その他、言いだしたらキリがない。深く考えたら、人類全体の痛みをちょっとでも感じとる想像力があったら、幸福ということはありえない。

 だから、自分は幸福だなんてヤニさがっているのはとてもいやしいことなんだ。

 たとえ、自分自身の家が仕事がうまくいって、家族全員が健康に恵まれて、とてもしあわせだと思っていても、一軒置いた隣の家では血を流すような苦しみを味わっているかもしれない。そういうことにはいっさい目をつぶって問題にしないで、自分のところだけ波風が立たなければそれでいい、そんなエゴイストにならなければ、いわゆる″しあわせ″ではあり得ない。

 昔、しあわせなら手を叩こう″という歌がはやったことがある。若い連中がよくその歌を合唱して、手を叩こう″ボンボンなんて、にこにこやっているのを見ると猛烈に腹が立って、ケトバシてやりたくなったもんだ。

ニブイ人間だけが「しあわせ」なんだ。ぼくは幸福という言葉は大嫌いだ。ぼくはその代りに歓喜″という言葉を使う。

 

 この岡本太郎氏の“自分のところだけ波風が立たなければそれでいい、そんなエゴイストにならなければ、いわゆる″しあわせ″ではあり得ない”の境地は、私の大好きな作家宮沢賢治氏と同じ境地と存じます。

宮沢賢治の『農民芸術概論綱要』の「序論」には、次の記述があります。

 

“世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない”

 

(私は、「国益」などの言葉が罷り通る世の中が大嫌いです。

そして、先ずは、自分の国だけが美しくあれば?との「美しい国へ」を唱える首相は好きになれないのです。)

 

 更に続けさせて頂きます。

 

 とかく、みんな自分を大事にしすぎる。自他に甘えているんだ。ほんとうに自分の在り方を、外につき出していない。だから、裏目が出てきてしまう。

自分でもそれを感じるだろうし、相手も裏目を感じて、深くつきあおうという気にならない。

 なぜ、友達に愉快な奴だと思われる必要があるんだろう。こういうタチの人は自動的にみんなに気をつかって、サービスしてしまうんだろうけれど。それは他人のためというより、つまりは自分の立場をよくしたい、自分を楽なポジションに置いておきたいからだということをもっとつきつめて考えてみた方がいい。

 もっと厳しく自分をつき放してみたらどうだろう。

 友達に好かれようなどと思わず、友達から孤立してもいいと腹をきめて、自分をつらぬいていけば、ほんとうの意味でみんなに喜ばれる人間になれる。

 自分で自分のあり方がわかってやることなら、もう乗りこえているはずだ。自分自身にとっていちばん障害であり敵なのは、自分自身なんだ。その敵であり、障害の自分をよく見つめ、つかんだら、それと闘わなければいけない。戦闘開始だ。

 つまり、自分を大事にしすぎているから、いろいろと思い悩む。そんなに大事にしないで、よしそれなら今度から、好かれなくていいと決心して、自分を投げ出してしまうのだ。

 ダメになって結構だと思ってやればいい。最悪の敵は自分自身なんだから。自分をぶっ壊してやるというつもりで。そのくらいの激しさで挑まなければ、いままでの自分を破壊して、新しい自分になることはできない。

 

 ここに於ける「自分」を「日本」と、そして、「友達」をいわゆる「国際社会」とでも置き換えてみてはいかがでしょうか?

例えば、“友達に好かれようなどと思わず、友達から孤立してもいいと腹をきめて、自分をつらぬいていけば、ほんとうの意味でみんなに喜ばれる人間になれる。”は次のように

置き換えて考える事が出来ます。

“「国際社会」に好かれようなどと思わず、「国際社会」から孤立してもいいと腹をきめて、「日本」をつらぬいていけば、ほんとうの意味でみんなに喜ばれるになれる。

 

 日本には「平和憲法」(即ち、「奇跡の憲法」(拙文《平和憲法は奇跡の憲法》)という大事な財産を有しています。

最近では、「私達の手による憲法」を作ろう等と、ジャーナリストの桜井よし子氏は唱えていますが、そんなに私達は立派な存在でしょうか?

私達の手といっても、私達が選出した政治家が作ります。

その政治家の現状は如何ですか!?

事務所経費をごまかすやら、やりたい放題です!

“女性は子どもを産む機械”と発言した柳沢厚生労働相などは“男性は戦争で相手を殺す機械”などと言い出すかもしれません。

そういう方々がどんな憲法を作るのでしょうか?!

 

 そして、そのような政治家を支持する国民が「国民投票」したら、どういうことになるのでしょうか?!

 

 テレビなどでは、細木数子氏のわけの分らない占い(?)などや、自称スピリチュアルカウンセラーの江原啓之氏は、芸能人たちの前世はどんな人物であったかなどのお告げ(?)が高視聴率を稼いでいたりしているそうですが、不思議ですね!?

 

私の母は、生前、いつまでもウダツの上がらない私の行く末を心配して、新宿などで有名な占い師の所へ行ったりして、“あなたの息子さんの将来は、洋々です。”等と言われて安心して帰ってきていましたが、さて今の私はどんなものでしょうか?

又、私の知人は“あなたの前世は、クレオパトラ”と言われたとかで、本来は低い鼻を、クレオパトラ以上に(?)高くしていました。

今の世界中にいる数十億人の人達に前世を振り当てるとどうなりますか?

前世の在庫不足となってしまいます。

となると、私の前世は、お猿さん?それでも在庫が不足で、ひょっとしたら、虫さんたちなのでしょうか?

 

 しかし、こんなとんでもない御神託を告げる江原氏でも、『週刊現代(2007.1.27号)』では次のように発言しています。

 

もし仮に私が徴兵されたら、人を殺めるくらいならその前に自決することを選びます。

 

 この江原氏の発言には、私は大賛成です。

国が行う大量殺人が「戦争」などというわけの分らない言葉で正当化されるのが不思議でなりません。

人殺しは、どのような形態をとろうとも悪です!

その行為を国が行うなんてもってのほかです。

 

 こんな戦争を行う武器弾薬は廃棄すべきです。

こんな人間に害を与える武器弾薬は麻薬同様に製造販売を取締るべきではありませんか!?

 

 

 あまり長くなりましたので、後半を《岡本太郎氏に学ぼう(3》で、続けさせて頂きます。

 

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